(機体#1) 飛燕1型丙,#3295, 244戦隊長小林照彦大尉機,調布飛行場,多分1945年1月26日
これは1945年1月26日に撮影されたと言われています有名な写真(1)のマーキングを再現しています。翌日小林大尉はこの機でこの機の最後の迎撃戦を行い,B−29に体当たりしてパラシュートで生還しました。s/n3295と書いたこの機体の破片が写真(2)にあります。小林大尉はこの機体を小松豊久大尉から受け継ぎましだ。写真(3)は1944年12月の浜松基地でのマーキングを示しています。写真(1)は5機撃墜と1機の将来のマークを示していますが,写真(4)はこれより少し前の2機撃墜,3つの将来マークを示しています。このデカールには両方のキルマークが入れてあります。注目すべきは濃緑色が青帯に一部かかっていますが,白帯にはかかっていないことです。白帯は空気取り入れ口の上にはありません。文献6には白帯が空気取り入れ口の前で広がっている様に間違って描かれていますが,定規を写真に当てると判るように白帯の上下ラインは機首から日の丸まで一直線です。白帯の前部にある暗い部分はプロペラの陰です。写真(4)の時点では全ての機銃が装着されていますが,写真(1)では全ての機銃が取り除かれ機銃口はパッチで覆われています。

(機体#2)飛燕1型丁,#4424, 244戦隊長小林照彦大尉機,調布飛行場,1945年3月19日
これは1945年3月19日に撮影されたオリジナル写真(5)に基づいています。この日244戦隊は第18,19振武隊を護衛して浜松沖あいの米軍艦船を攻撃する予定でしたが,厚い雲に遮られ不成功のうちに帰還しました。日本陸軍はもし成功していれば,大々的に宣伝するつもりでした。(そのために出発前に記念写真を撮っていました)。全てのパイロットは必勝と書いた鉢巻をし,小林戦隊長は自身の機体の方向舵に必勝と書き(写真(6))、整備員は増架タンクの前面に必と勝を記入しました。タンクの後方側面には4名の整備員の名前が記してありますが,読み取る事は不可能です。このデカールに示してある4名のお名前は全くの推察であります。(と言っても隊長機を整備した事のわかっている方のお名前を入れてあります) 文献6では増架タンクに更に"武運長久","祷勝て"と書いてあるイラストが載っていますが,これは板倉中尉の機体(48−005の機体#3)です。 オリジナル写真(5)をよく見ますと,濃緑色が胴体の赤帯のみならずプロペラとスピナーにもスプレーされている事がわかります。主翼前縁の識別帯は赤で,全ての機銃が装備されています。胴体帯の赤色は濃緑色を塗る前の写真(48−004,機体#2参照)から明らかです。写真(7)を拡大すると脚カバーの機番は"赤24(上部にバー)"で9個のキルマークがついていることが判りますが、主翼前縁の識別帯は黄色です。我々は写真(5)の時点では機番は青24(次の機体と同じ)と考えていますが、確定的ではありません。両方の機番マークを入れてありますので,選んで下さい。 後に本機は10個のキルマーク(写真8)と5月初めには14個のキルマーク(4月30日に達成,写真9)をつけました。その時の味方識別帯は黄色であり,全ての機銃は依然装着されています。これらのマーキングにする時は33a+bか38a+bを使い,31と32は使わないでください。

(機体#3)飛燕1型丁、#4424, 高島俊三中尉機,第159振武隊,調布飛行場,1945年5月初め
もともと本機は小林戦隊長機でしたが,第159振武隊の高島中尉(小林隊長の明野飛行学校での教え子)に与えられました。彼の武運を願って戦隊長は愛機を彼に授け,マーキングをより凝った物にしました。オリジナル写真(10)では,胴体帯を日の丸の赤より暗い色に塗りなおしており,多分コバルトブルーであると思われます。塗りなおしたことは、濃緑色のスプレーがかかっていない事,および以前の帯よりほんの少し上に描かれている事からも明らかです。機番(バーの無い24)は青(コバルトブルーではありません)で,またアンテナ柱は濃緑色一色に塗られています。胴体の機銃は取り除かれており,溝はパッチで塞がれています。この写真は塗装変えが終わった時に取られた記念写真で、恐らく本機が知覧に出発した時にはマーキングは変えられていたと思われます。

(機体#4)飛燕1型丙,#43,パイロット不詳,調布飛行場,1945年3月または9月
よく小林隊長機と言われていますが,実際は本機は当初そよ風隊の2番機で、その後本部小隊か振武特攻隊にまわされた機体です。写真(11)はそよ風隊時代のものです。明らかに方向舵は別機からのものです。胴体帯はよく3色だと言われていますが,実際は白帯1本でそのすぐ後に濃緑色の帯状の迷彩があり、左側では白帯と日の丸の白縁に濃緑色のスプレーがかかっているために3色と間違って判断されています。 1945年9月にギャラガー氏によって撮影された写真(12)にあるように,所属が変わった時に本機のマーキングは尾部を除き変わりませんでした。ここでは両方のマーキングを入れてあります。文献3では尾翼の戦隊エンブレムは"鮮やかな黄色"とありますが,実際は普通の白です。日の丸の白帯は主翼下面のみにあります。

(機体#5)飛燕1型丙(多分),鈴木正一伍長機,調布飛行場,1945年2月16日
この機は鈴木伍長が本部小隊で小林戦隊長のウィングマンをしている時の機体(写真14)で、この写真がこの機の唯一の写真であります。鈴木伍長はこの機で2月16日に20機の米海軍機とのドッグファイトを行い、F6Fによって撃墜されました(戦死)。この機体が彼の専用機であるというのは,写真に写っているパイロットは鉢巻をしていますが、本部小隊の中で彼だけが鉢巻を巻いていたのでまず間違いないためです。残念ながら胴体前半部分は写っていないので,機番や型式は不明です。多分当時多かった丙型であると思われます。機体にはB−29キルマーク5個が描いてあったと言われており,多分小林隊長と同じ色とスタイルでしょう。この機体は主翼上面のみに濃緑色スポットを施し,胴体帯びは通常より低い位置にあります。日の丸の白帯は6箇所あります。この機はアンテナ柱を備えていません。イラストはこの点で間違っています。

(機体#6)飛燕1型丁,#57,四宮徹中尉機,調布飛行場,1944年12月3日
四宮中尉は震天制空隊のメンバーで,この機を駆って1944年12月3日にB−29に体当たり攻撃を行い撃墜し,自身は左主翼の半分を失いながら基地に生還しました。機番は写真15に,また写真16には赤の尾翼から上方に向かう赤帯が写っています。しかし1945年1月に銀座松屋デパートで展示された時の写真(17)ではこの帯は消されていました。従って帯の残りの部分がどうなっていたかは確認出来ませんが,我々はS字型の帯(Sは四宮を表す)と思っています。写真17で"ココヲオシテダス"と言う注意書きが残っている事から,帯はその上に位置していたはずです。排気管と空気取り入れ口近くの暗い部分は汚れで,赤色の残りではありません。写真の証拠はありませんが,尾翼にシがあったのではないかと思われます。他の例(ナ,エ,タ)の写真から,尾翼の上方に角の丸い字であったと判断しています。幾つかのイラスト(たとえば文献10)では主翼端に赤を描いていますが、これは正しくないでしょう。四宮中尉は後に第19振武隊の隊長になり,4月29日の知覧基地からの特攻出撃で戦死しました。

(機体#7)飛燕1型丁, #57(バー付き),パイロット不詳,調布飛行場,1945年3月
この機には2つの写真がありますが,どの中隊の機かは判りません。濃密な濃緑色スポットが機体上面全体,脚カバーそして電光と空気取り入れ口の間に施されています。日の丸の白帯は通常の6箇所にあり,主翼上面の物は比較的狭く一部濃緑色のスプレーがかかっていますが,反対に胴体の白帯は非常にはっきりしています。

(機体#8)飛燕1型乙,#45、安藤喜良伍長,成増基地に着陸,1945年1月9日
安藤伍長の飛燕#45については、数枚の写真が残っています。1944年12月には右側に電光を,左側に細い白帯だけを描いていました(写真19,20)1945年1月9日に戦闘による損傷のため成増基地に緊急着陸した時は,右側に更に白の細帯をつけていました(写真21)。しかし左側に電光が描かれていたかどうかについては写真がなく不明です。 幾つかの本はマーキングの統一性がなくまた胴体の左右で濃緑色の迷彩スタイルが違う事に疑問を投げかけていますが,これは夫々を描いた整備員が違う事や,一度にする時間が無かったためと思われます。当時マーキングの統一性などは誰も気にしていませんでした。このデカールでは全てのありそうなマークを入れてありますので,選んでください。日の丸の白帯は6箇所にあり,主翼上面の物はかなり濃緑色がかかっています。 この機体は当日かなりの損傷を受け,エンジンを交換した後244戦隊に戻され,三日月隊に所属したと言われています。1月27日に安藤伍長は別の機体(本機と言われていますが,間違い)でB−29に体当たりを行い,戦死しました。